2018年




ーーー1/2−−− 遠望する山々


 山岳を展望して、その名称を明らかにすることを山座同定とを言う。登山を趣味にしている人だったら、多かれ少なかれそのような事に関心があると思う。山に登り、周囲に見える山々の名前を、つぶさに言い当てる事ができると、ちょっと得意な気分になる。山頂で「あの山は何ですか?」などと聞かれれば、待ってましたとばかりに答えたくなる。同伴者がいる場合は、聞かれなくてもくどくど説明したりする。他のパーティーの人が、間違った事を言っているのに接した場合は、余計なお節介も顧みず、訂正を申し入れたりする。ときには、知ったかぶりでデタラメを述べ立てる登山者がいたりして、苦笑を禁じえない事もある。

 実際の山ではなく、写真や映像でも、山名を言い当てることができる。山岳写真は、空撮を除けば、撮影する場所が限られているから、名の知られた山ならだいたいどこかで見たような構図となる。画像を見た瞬間に山名を口にすると、不慣れな人は驚いたような顔をするが、言うほど大した事ではないのである。

 それに対して、旅先で遠望する山々の名前を当てるのはけっこう難しい。遠くの山は特徴を掴みづらく、標高を見定めるのも容易ではない。地図上で方位を確認しながら類推するのだが、手前の山と重なっている可能性もあり、なかなか結論が定まらないことが多い。登山地図で慣れ親しんだ位置関係と、広域をカバーする道路マップなどの見え方とでは、スケール感が違うので面食らったりもする。

 さて、我が家の周辺からも、天気が良くて視界に恵まれた日には、はるか遠くの山々を望むことが出来る。山座同定をしてみると、ここからあの山が見えたのかと、驚くこともある。

 まず目を引くのは、南アルプスの甲斐駒ケ岳、北岳、仙丈ケ岳のトリオである。その右に塩見岳、さらに荒川岳、そして赤石岳まで見えることもある。これらの山々は、山脈となって見えるから、景観としても立派である。いっぽう、山頂だけが見える山もある。八ヶ岳の主峰赤岳と阿弥陀岳、権現岳は、美ヶ原から右に下がった稜線の上にちょこんと見える。また、最近になって、自宅のそばではないが、県道中房線の冬季ゲートの辺りから、浅間山を見つけた。これは前景の山々の間に、まさに奇跡的な確率で見えたという感じであった。

 冬の時期は、空気が澄んでいる。そんな良く晴れた日に、知った名前の山を遠くに発見すると、なんだか嬉しくなるものである。







ーーー1/9−−− 幸運なるPCの修復


 
先日、突然パソコンにトラブルが発生した。パソコンのトラブルは、重大なものほど突然に発生するものである。起動ができなくなった。「NTLDR is missing」 という表示が出たまま動かない。スイッチを入れ直したり、リセットボタンを押したり、電源プラグを抜いてまた差すといった、応急対策を取っても効果無し。そこで、スマホで調べてみた。

 このトラブルについていくつかのサイトが取り上げていた。NTLDRというのはパソコンを起動するためのプログラムで、それが作動しないというのがこの状態。原因はいろいろ考えられるが、中には深刻な故障のケースもあり、その場合は専門家でないと修復は無理とあった。とにかく、いずれの記述も、内容はほとんどチンプンカンプン。

 8ヶ月ほど前に5800円で購入した中古パソコンである。まあ、そろそろ壊れる時期なのかと思った。しかし、当座パソコンが使えないとなると、かなり不自由である。しばし途方に暮れた。 

 分からないながらも、根気強くネットで調べていたら、「BIOS起動順位の変更」という原因が今回のケースに当てはまるように思えた。

 電源スイッチを入れると、パソコンが起動プログラムを探すのだが、関係ないところを探すと見付からないので、この状態に陥ると。パソコン内部で勝手に起動順位が変わってしまうことが、まれにあるそうである。このパソコンは、常時外付けハードディスクと接続してあるので、そちらに優先順位が移ってしまった可能性がある。

 ではBIOS起動順位を元に戻すにはどうしたら良いか。ネットの解説にはサラリと書いてあるだけで、詳細な手順は不明。だいいち、BIOSメニューの画面を出す方法も分からない。メーカーによって使うキーが違うらしいが、このパソコンは誰かが自作した中古品である。当てずっぽうでやるしかない。

 いくつか試した後、「Delete」キーを押しながら電源を入れたら、BIOS画面が現れた。こんな画面があるとは知らなかった。さてその画面、英語なのは良いのだが、単語がIT系の専門用語なので、なかなか筋が読めない。先に進めるには、また試行錯誤。  

 そうこうしている内に、起動順位とおぼしきメニューにたどり着いた。第一順位が「Remote」となっていたので、これだ!と思い、「HDD」に変更した。チェックを変更するという、単純な操作である。そして保存をして再起動をかけたら、なんと正常に起動できたではないか!

 その瞬間、嬉しさはもちろんあったが、なんだか現実感が無く、狐につままれたようであった。普段、中身など気にせず使っているパソコンだが、実は極めて高度な仕組みの機械であり、したがってデリケートでもあるということを、改めて垣間見た気がした。

 ともあれ直ってよかった。パソコンに精通していない私が、よくここまで頑張れたと、自分を褒めてやりたい気がした。 

 先日、長女と会った際に、この話題が出た。「お父さんよく直せたわね」と娘は言った。「私でも、突然のトラブルで、こういう修復が出来る自信は無いわ」とも。ちなみに娘は以前IT関連の会社に勤めていた。私が「自分でも良くやったと思うよ」と偉そうに言うと、娘はちょっと苦言を呈した「たまたま幸運が重なって上手く行ったのだと思うわ。途中で何か一つでも道筋を見失ったら、目的にはたどり着けない。素人にとっては、それは幸運と言うくらいの確率。パソコンというのは、そういうものなのよ」





ーーー1/16ーーー 指笛の反応


 
昨年12月、チャランゴ教室の忘年会に参加した。宴が始まって間もなく、先生が隠し芸を披露した。他に誰か無いかと言われたので、初参加の私がしゃしゃり出て、指笛で一曲演奏をした。指笛については2014年5月の記事に書いてあるのでご参照頂きたい。

 これが、かなり受けた。忘年会に参加した生徒は13人だったが、誰もが激しく関心を持ち、やり方を教えてくれと言った。そして自分でやり出した。若者から年配者まで、男性も女性も、その場に居合わせた全員が、指をくわえてフーフーやっている様は、滑稽であり、ちょっと異様でもあった。

 私はこれまで、人前で指笛を演奏した事は何度かある。しかし、聴衆の中に、自らやろうとした人はこれまでいなかった。だから少なからず驚いた。やはり音楽教室に通っている人たちは、自己表現に関して貪欲なのかと思った。




ーーー1/23−−− 義援金


 気付かないうちに3ヶ月が過ぎてしまった。後悔の念を抱きつつ、4ヶ月分を送金した。東北大震災の義援金である。

 震災が発生して暫くしてから、義援金を送ることを決めた。我が家が僅かな金額を送ったところでどうなるものでもなかろうが、震災の記憶を自分たちの中で風化させないために、毎月11日に送金することにしたのである。

 当初はきちんとその日に実行していたが、月日が経つにつれて忘れがちになり、数日過ぎてから気が付いて送ることが多くなった。さらに、年齢による頭のボケも加わったせいか、月をまたいで忘れる事も生じるようになった。そして、ここへ来てついに、3ヶ月間手付かずという事態になったのである。

 人の記憶というものは、このようにして薄れて行くのだと感じる。悲しいことだが、これが現実である。

 ところで、この義援金について、思い出したことがある。

 年の初めの確定申告をする際に、以前は役場の確定申告会場へ出向いて手続きをしたものだった。義援金を送りはじめた頃のことである。義援金は寄付金控除の対象になるので、用紙にそのように記入して提出した。そうしたら、相手をした役場の職員が、難色を示した。

 寄付の実態を照明する書類が必要だと言うのである。私は持参した貯金通帳を見せて、「送金の事実は通帳で確認できますが」と言った。それでも相手は納得しなかった。寄付を募る団体(今回のケースでは赤十字)が出している、寄付に関する印刷物などは無いかと言い出した。何でそのようなものが必要なのか、私は理解に苦しんだ。

 やり取りをするのが面倒になった私は、「もういいですよ、私は被災者のために寄付をしているのであって、税金の控除が目的ではありませんから」と言った。すると、それまで事務的に書類を手繰っていた職員が顔を上げ、ハッとしたような表情になり、申し訳なさそうに軽く頭を下げた。

 現在では、我が家の確定申告は、ネットでダウンロードした書類にデータを書き込み、プリントアウトして郵送している。東北大震災の義援金に関しては、ちゃんと説明が書いてあり、簡単な処理で控除の手続きが出来る。あの当時はそういう制度が整っていなかったのか、それとも役場の職員に周知されていなかったのか。




ーーー1/30−−− ネットのコミュニケーション


 
ある時、ブログに失礼なコメントがあった。それに対して誰かが何かを書き込むかと思い、しばらく様子を見たが何もなかったので、自分でそのコメントをたしなめる文をアップした。無視しておけば良いとも思ったが、私のブログはお客様も読んでいるので、放っておけばお客様も気分が悪かろうと判断したのである。その後、コメントを書いた人からは何の応答も無かった。

 なんとなく後味の悪い話である。今回は使わなかったが、ブログの管理システムには、迷惑なコメントを削除する機能があるし、その発信者からのアクセスを自動的に制限する機能もある。そういう対処方法が準備されているということは、世の中にそういうトラブルが絶えないという事なのだろう。ネットという顔が見えないコミュニケーション手段に潜む、人間の邪悪な部分と言えようか。

 「そんなことは、ネットでは当たり前だから、いちいち目くじらを立てる必要は無い」という意見もあると思う。しかし、他人を不快にさせ傷つけるという行為に対して、感覚が鈍感になってはいけないと思う。そういう不道徳に対して鷹揚に構える事は、突き詰めれば企業社会や教育現場に蔓延するいじめを助長することにもなる。自律性が欠如した人間には、言って聞かせるしかない。もっとも、言っても改めるかどうかは分からないが。

 関連した話と言えるかどうかは分からないが、ちょっと思い出した。SNSは、頻繁に接していることで相手に親近感を覚え、気安い表現、不躾なもの言いを招く危険があると聞いたことがある。しかし、親近感を抱くのは、言わば片思いであって、相手は感知しないこと。「親しき中にも礼儀あり」という言葉は、親しい間柄であっても礼儀をわきまえなければならないという意味だが、見えない相手に対して、親しくも無いのに勝手な思い込みで気安くなり、礼儀を失するというのが、くだんの現象なのである。

 不特定多数の相手に対して文章を発信するというのは、文筆業などを除くほとんど全ての人にとって、これまで未経験の分野であった。それがネットの誕生によって誰でも自由に簡単に出来るようになった。その手段は手に入れたが、正しい使い方に関しては、まだまだ不慣れなのが、世の現状だと思われる。相対の人間関係ではありえないような不道徳が、ネットの上では平気で展開されるのである。

 ネットのコミュニケーションというものは、人間の性が無軌道に、露骨に出てしまう恐れをはらんでいる。もっとも、人間関係の難しさは、ネットに限ったことでは無いが。

 







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